ぶろぐ

日常生活で思ったこと、本を読んだ感想、プログラミング等勉強したことの内容を書いてます

教養としての認知科学1

 鈴木宏氏著「教養としての認知科学を読んでいるので、その内容、考えたこと等を書いていこうと思います。題名に1、と書きましたが本の順番通りにやっていくわけではなく、思い立ったのがもう後半を読んでいるときだったので途中から書きます。

 あとは内容を細かく書いていくのではなく、自分が面白い、と思った部分だけ書くと思います。

 

 6章の「ゆらぎつつ進化する思考」について。人間が論理的な思考をできる場合とできない場合があり、それは環境や文脈に依存するというのは自分にも経験があるためよく分かりました。環境や文脈によって、自分が今まで生きてきた中で獲得してきた前提条件から何らかの関連する事象が想起されて、その前提条件の影響で論理的ではない思考をしてしまうのだと思います。つまり、その前提条件によって人々の思考は大きく左右され、そこで個人間の思考の差異が生じるのだと思います。

 また、最近ベイズの定理ついて深く学んだため本の中での具体例で惑わされずに確率を考えられましたが、ベイズの定理を知らない状態では本の中の例は、非常に難しく感じると思います。

 

 また面白かったのは、人間が論理的に思考できないという話の中で、まだ幼く教育を受けていない子が論理的に考えられないのは、論理学が、前提(仮定)を疑うようなことをせずに(例えば「イギリスは寒い」、「綿花は温かいところでしか育たない」という仮定から「イギリスでは綿花は育てられない」という結論が得られる場面での前者二つ)、結論を導くという性質があるためという考えです。

 学校教育では、先生や偉い人が言うことは絶対で、とりあえず命令されたらそれに従うことを覚えさせられます。それはいい面、悪い面があると思いますが、それによって前提が正しいか否かを深く吟味、思考しなくなり、論理学的な、前提は当たり前に正しいとする論理的思考ができるようになったと考えられるのです。

 

 現在の教育が集団的行動、みんなが同じ方向を向いて、同じようなことばかりさせていると感じますが、それにも通じる考えだと思います。ある程度論理的思考をする上で必要になるのかもしれませんが(この程度については発達心理学等を学ぶ必要がある気がする)、言われたこと、与えられた情報を鵜呑みにする習慣をつけてしまうのもこの教育が原因の一つであると思います。

 

 またひらめきについて、閃きというとパッと新しいアイディアが浮かんでくるイメージがありますが、ひらめきは専門的には「洞察」というらしく、それは0から1が生じるのではなく、少しづつ1に近づいていくというのが今までのイメージと少し違い面白く感じました。

 「閃きは持っている何らかの知識と知識が結びついたとき、新しい関係性が見つかったときに生じるのだ」、などとも言いますが、認知科学的にそれに近いことが分かりました。具体的には、無意識のうちに徐々に閃き(正解)に近づいていく。これは見込みのない認知リソースと見込みのある(問題解決しそうな)認知リソースが無意識の間に入れ替わったりしながらフィードバック制御をしていき閃きに近づくということで、これが無意識の間に行われるのがよく分からないと感じました。

そもそも意識と無意識とは何なのか、について詳しく調べるべきなのかなと思いました。

 

 また、両眼視野闘争を応用した連続フラッシュ抑制などの話が出てきて、友達が両眼視野闘争について研究したいと言っていたのを思い出し、そこら辺の話も興味深いと思いました。「何が」闘争しているのか。一次視覚野の話なのか高次視覚野の話なのか、意識的な知覚が生じることと、注意が向くことのメカニズムが違うだとか、面白い話が盛りだくさんです。全部調べる時間はないですが、ちょっとづつ考えていきたいとは思います。